読めることの尊さとちょっとした傲慢さ。

 

 

 

それは、漢字を習い始めて間もない頃でした。

どんどん身の周りの物が読めるようになり、一つひとつ私の中で名称がつき始めた時、私は少し高揚していました。今まで分からなかったものが自力で分かるようになる感覚が、とても嬉しかった。言葉を選ばずに言うと、世界のすべてを知った、そんな気さえしていたしていたのです。

これがすでに恥ずかしいのですが、お題は「勘違いしていたちょっと恥ずかしいこと」なので、先に続きます。

 

 

そんなある日、何かの用事で地元の駅へ行った時、一緒に行った父にずっと思っていたことを聞いたのです。

 

「月極ってどこにでもあるね。そんなに大きな会社なの?」

 

上記、私が何と言ったか察しがつくのではないでしょうか。

私は月極(つきぎめ)駐車場を月極(げっきょく)と読み、月極(げっきょく)という会社の駐車場であると思っていたのです。

父は初め私が何を言っているか分からなかったようでしたが、私の視線や場所を見て、

つきぎめと読むこと、そして月極駐車場の意味を教えてくれたのです。

 

そのちょっとした勘違いが、当時の私はものすごく恥ずかしかった。「そうなんだ~」と普通に返答したつもりでしたが、衝撃を受けたのは間違いないのです。

世界をすべて知っているような気さえしていた小さな私は、その時自分の無知を自覚し恥じたのでした。

 

 

今思い返すと、あの時父に聞いて良かったと思います。当時は月極を読むにはまだ早い年齢で、いざ月極という言葉を読むのは大分先だったはずです。その時、気持ち的に素直に受け入れることができたか分かりません。今は、そう読むのでそう読むのだとしか言えないんですけれど。

子どもの時の勘違いを、子どもの時に知って良かったと思うのです。そして、自分の知っている世界がまだまだほんの小さな欠片であるということを。

そんなちょっと傲慢な、だけど世界の広さを知った子どもの頃のエピソードでした。

 

 

 

文章や言葉がある程度読めるようになって、自分の身に馴染んできたとき、その名称のものが違う名前で呼ばれるようになっていることがあります。

例えば、チョッキ→ベスト→ジレのように。正式にはそれぞれに違いがあるのかもしれないですが。

 

同じものなのに、時代によって、人によって、名称が変わり、続いている。

リバイバルなんてこともありますしね。古いものが可愛い、みたいな。

その変化に自分が追いついていかなきゃ、と必死で追いかけて追いかけて、たどり着いたら既に変わっているなんてことも世の中にはたくさんあるわけで。

そんな時に人がどう動くか。追い続けるのか、あり方を変えるのか、固定するのか。

 

ただ、その変化を否定せず笑わず、その都度受け入れて生きたいなあと、

月極駐車場を見るたびにそんなことを思います。

 

お題「子どもの頃に勘違いしていた、ちょっと恥ずかしいこと」