ああ、ついにその時が来てしまったかと思った。
もう二度と逢えなくなることが、これほどまでに寂しいと思うのは何時ぶりだろうか。
生きる世界が違っても、今何をしているか知らなくても、きっとどこかで元気に生きていると信じていた。大丈夫だという根拠のない自信。それをどこかで心の拠り所にしていた。
突然流れてきた写真と文字を読み、嫌な予感がした。大抵の場合、こういうものはあまり良い情報ではないのは経験上分かっていた。
ゆっくりと文字を追って、内容を理解するのにそう時間はかからなかった。その文章を繰り返し読み、笑った顔を思い出していた。
穏やかで、お茶目で、けれど通すべき筋は通す。そんな姿が好きだった。
俳優という仕事は、稀有な仕事だと思う。
もうこの世に居なくても、作品の中で「生き続けている」。時に笑い、時に涙し、その生きざまが映像に残っている。
ただ、新しい物語が紡がれないだけ。
もう二度と見ることができないわけではない。映像で、何度も見ることができる。でも、時間が進まない。
時間を巻き戻して、同じものを何度も見ているだけ。
今、現実世界で他界した人ほどの実感がわいていない。実際に会ったことも、会って話したこともないのだから当然といえば当然で。
身近な人の死も実感がわくのは随分経ってからだった。日常に戻り「無くなった」ものに気づいたときに、本当にいないのだと気づいた。現時点で、私の生活で「無くなった」ものは無い。
だから、今の理解しているのももしかしたら虚構で、もっとずっと先に穴があるのかもしれない。
いないことに寂しくなって、新しいものを受け入れられなくなるかもしれない。
それでも笑って許してくれるかもしれないと思うのは、私のエゴだ。
所詮私が知っているのは作品の中のひととなりで、実際はどんな人物か分からない。
それでも、その人だったから演じられた人物だったと思う。他の人が演じても、きっとあんなにも愛される人物には成りえなかったのではないかと、いち視聴者として思う。
だから、演じてくれてありがとうと心からお礼を言います。
他の演者のコメントを見たとき、はなむけの言葉のように思えた。
これからまた長い旅路についただけとでもいうように、寂しいだけで終わらない言葉たち。これまでの感謝と家族へ捧げる言葉が、なんだかとても良いなあと思う。
こういう言葉をかけてもらえるのは人徳なのかな。
長い間お疲れさまと言いたいし、でもまだ見ていたかったとも言いたい。
そんなわがままなことを思いながら、彼の笑顔を思い出している。