家電の夏疲れ

 

みなさん、こんばんは。

なんだか急に涼しくなりましたね。先週の暑さが嘘のようです。タオルケットで眠っていますが、そろそろ布団も変えた方が良いかもしれないなあ。昨晩はしっかりかぶったままで寝ていたようなので、よっぽど涼しかったのだと思います。

季節が進むのは急だなあ。もう少し、ゆっくり涼しくなってくれたらいいのに。

 

 

 

最近、家電の調子が悪いです。先月のサーキュレーターに始まり、マウス、卓上のデジタル時計、電子レンジ…家電たちも夏の疲れが出たのでしょうか。

 

サーキュレーターとマウス・デジタル時計は、修理して直ったのです。修理というのも自分でドライバー片手に分解して、掃除しただけなのですが。

基本的に分解できそうなものは分解して直すタイプです。細かい作業が楽しい。

 

 

サーキュレーターは夏の間よく使っていたので、ホコリがたまっていて掃除にちょうど良かったです。モーターがダメになっていたらどうしようかと思いましたが、そうではなかった様子。単純に掃除しただけで直ってくれたので一安心です。

これからの季節は洗濯物を乾かすのに使うので、まだ壊れてもらっては困ります。それでも使用頻度は少し落ち着くだろうし、これでしばらくは大丈夫かなあ。

 

デジタル時計は、8月に電池を変えたばっかりだったので故障かなと思っていたのですが、こちらも分解してみても何もなく。とりあえず掃除して、元通りにしてみたら直りました。

暑かったからか、単純に機嫌が悪かったのか…機械もそういう時がありますよね。とりあえず直ってほっとしています笑。

 

 

ただ、電子レンジはそうもいかなそうです。

電子レンジの分解はできないので、外せるところは外して掃除したのですが(お掃除推奨の部分)、やはり調子が悪く…もう基盤がダメになっているのかもしれません。

そういえば去年の今頃にも調子が悪くなっていたのですが、その時は1~2日ほど放電したら直ったのでそのまま使い続けていました。

 

調べてみると、電子レンジの耐久年数は約10年なんだそう。私が使っているものはとっくに10年超えていました。そろそろ無理がきかなくなっているのかもしれませんね。引っ越しをするたびに連れて来ていたので、家電の中でも随分古参でした。

 

 

なのでこのところ電子レンジ無しで料理をしているのですが、これはこれでありだなあとも思ったり。無ければ無いでなんとかなりますね。

ただやっぱり不便です。オーブンレンジなので、オーブンも使えなくて食パンが焼けません。仕方なくフライパンで焼いて食べているのですが、平日の朝はさすがに面倒になってきました。

 

あと、事前に火を通しておきたいものにレンジって重宝します。

例えばジャガイモやさつまいも、かぼちゃなどの固い野菜。これから美味しくなる食べ物ばかりです。調理すると固いので火が通るのも時間がかかるし、ガス代も気になるし…

 

 

いつ買い替えをしようか、悩むこの頃です。

 

知らない間に失った「若い」という才能


また、新しいことをしなければならないと、私は私をせめぎたてます。

現状維持のままではその物事の精度を上げる事しかできないのは分かっているけれど、新しいことに取り組む余力がないと感じる時には、心が折れそうになります。

 

ずっとこのままでいたいなら、何かをしなければならない。

何かをするということは、変えるということ。新しいことを始めていかなければならないということ。

一見相反することのようで、実は真理です。

 

 

分かってはいるのですが、どこかで臆病な自分がいます。

踏み出すことの大切さも、しなければならない理由も、信じるべきではない言葉も分かっているのに動いていない。動けないと言い訳をしている。

理論的に組み立てて理由を探して、頭でっかちになりすぎているのでしょうかね。

 

こんな風にダメな自分ばかりを見ていると、過去の自分がもがいて動いてきたことが凄いことだと思います。どうしてできたの?と問いたくなる。

その時々の状況がどうだったか覚えているわけではないですが、それでも進んでいた。何も見えないときさえあったというのに。

結果がすべて良いものではないですが、自分自身はその過程を正当に評価できる人間のひとりだと思います。その過程がどれだけ苦しくても間違えていても、糧にできるのは自分自身。褒めることができるのも自分自身。

 

 

こういう時に、若かったという年齢や経験値の差、守るものが少ない事を理由にしてできていたと納得してしまうと、この先もっと進めなくなりそうです。

絶対に今の自分は過去の自分より年齢も経験も重ねているのですから。まっさらな状態に戻ることはできないから、だから「できない」の理由にしかならないのです。

その「できない」理由を知りたいわけではなくて、「できた」理由が知りたいのに。

 

 

「若さは才能」という言葉の意味が、最近分かるようになりました。

自分が若いときには、そこに在るものだからそれが特別なものだとは思っていませんでした。むしろ「若い」ということだけで周囲の大人に色眼鏡をかけられていることに、空しい思いをしたことの方が多かったです。

けれど、今思えばその若さは生きている限り必ず失っていく才能でした。

周囲の大人の色眼鏡は、失った自分の才能を直視できずかけていたものかもしれないと考えるようになったのはつい最近です。

 

今の自分はその才能は失っても、少しは積み重ねた経験があります。

その経験でできることを、探していかなきゃなあ。

 

 

 

なんだか後退している気がします。

停滞していると思っていても、少しずつ時の流れに押されているのでしょう。いつの間にか流されている、川の小舟のように。

 

もっと頑張らなければ、と気持ちを入れ直す10月の初めです。

今年もあと3ヶ月。

 

絵を描く人

 

みなさん、こんにちは。

昨日の中秋の名月、ご覧になりましたか。私はすっかり忘れていて、今朝そういえばお月見だったと思い出しました。昨日の朝ニュースでお月見の話が出ていたので、お団子食べたいなあと思っていたのに。花より団子です。

しかもお団子も忘れて、結局食べていません笑。こういうイベントごとでしか出ないような商品もあるので、食べたかったのになあ。

 

 

 

季節を感じられる商品が好きです。

普段食べている商品もパッケージが変化していて、ワンランクアップしているような気分になります。中身はいつもの味なのに、特別感を味わえますよね。デザインの力。

私は絵心が無いタイプなので、そういう美術系のお仕事をされている人を本当に尊敬します。色使いや構図が、どうしてそんな風に描けるのかいつも感動してしまいます。

 

 

子どもの頃、友人が絵を描くのを見ているのが好きでした。その友人は絵が好きで、しかも上手。描いてほしいものを言うと、さらさらと描いていくのです。頭の中を、神経を通して手に伝えてそのまま紙に描いていく。写していく、といっても良いのかもしれません。

目の前で、ただの線が絵に変わっていく。その境目がいつも不思議で、ずっと見ていられました。

 

 

絵を描く人は、観察力が凄いのだなあと感じます。

全体的なバランス感覚ももちろん素晴らしいのですが、細部まできちんと観察して絵に描かれていることが多いのです。そんな模様があったかなと思うようなところも、絵に表現されている。

 

そういう細かいところまで見ているからこそ、ひとりひとり違うのだと感覚で分かっている人が多い印象があります。同じ人が誰一人いない、だからこそ等身大のままでいいというような。自分を大きく見せるでもなく、また過小評価もしない。

あくまで私の周りにいる人たちの印象ですが、話していて居心地が良いなあと感じることが多いです。「受け入れてくれる」という安心感があります。

 

 

友人を見ていて、こんな風に絵を描くことができたらと思ったことがあります。

絵を描くことが楽しくて、やらずにはいられないというように描いていた友人。なぜそんなに楽しそうなのかと聞いた時、「絵を見て喜んでもらえることはもちろん嬉しいけれど、それ以上に自分が好きだから描いている」と言っていたことを思い出します。その楽しそうな顔が忘れられません。

自分の好きなものが分かっているということが羨ましい。

 

 

私もあんな風に何かに打ち込むことができたら、と思わずにはいられません。

 

 

可愛げが無いと言われた話

 

他愛無い雑談中に、私ができないことを話していたはずなのに、「それが出来るようになっても可愛げが無い」と言われました。

 

この「出来るようになっても」には2通りあると思っていて。

並列としての「出来るようになって『も』」の意味ならば、今現在も可愛げが無いということでしょうし。(遠回しな厭味)

補完して「出来るようになっても可愛げが無い(からできない方がいいのではないか)」ならば、今現在可愛げが無いというわけではないでしょう。

この補完はやりすぎかなあ。

 

言った本人にとっては、何の気なしに言った言葉なのでしょう。おそらく。(…そう願っていますが実際はわかりません)

ですが、言われた側はそう簡単に流せるわけがなく。

目元は笑って誤魔化すことはできましたが、マスクの下の口元は笑っていなかったです。

 

 

 

「女は愛嬌」という言葉は、今でもよく耳にする言葉です。令和の時代にはあまりふさわしくないかもしれませんね。

けれど実際ぶすっとしている人よりもニコニコしている人の方がとっつきやすいですし、私だってそういう人に話しかけやすいのも事実です。

 

 

でも可愛げが無いというのはまた別の話で。

出来過ぎたり、過度の引け目を感じていたり、言葉の端々に卑屈な感情が乗っていることなどの内面的な部分。

そういう内面の「可愛さ」が、私には無いということ?

と考えれば考えるほどに迷路に入っていきます。

 

出来過ぎることもマイナスイメージになるのかあ。人間は比較をする生き物だから、相手に対して臆してしまうということらしいです。

以前の職場の先輩がとても仕事ができる人で、入社当初はなかなか周囲に馴染めなかったと話されていたことを思い出します。私は後輩でその先輩を尊敬していましたが、他の先輩方から見れば「出来過ぎる後輩」だったからでしょうか。

「ちょっと失敗するくらいが可愛い」と上司に言われていたそう。そんなことを言われるのも何だかなあと思う。

 

 

 

見た目の問題じゃない部分の「可愛さ」って難しいですね。

以前「可愛いはつくれる」というキャッチコピーがありました。今でもよく覚えていますが、女の子たちのきらきらの笑顔の広告がまぶしかったです。

 

見た目の可愛さを作って笑顔でいたら、だんだん中身も変わっていくという話を聞いたことがあります。変化を他の人に褒められて、自分に自信がついてくるということですかね。

確かに自信がついたら自然に笑顔が増えそうだなあ。その気持ちも分かります。

 

 

でも可愛くなくてもまあまあ生きてこられてるし、このままでいいかなあとも思うのです。結局、他者の評価でしかないものですし。

あまり気にしすぎても、と思いつつ言葉の裏側を探ってしまいました。

 

日常の風景

 

みなさん、こんばんは。

先日歩いていると、前を歩く3~4歳の子が歩くたびにキュッキュッと鳴る靴を履いていて。その姿が可愛いやら懐かしいやらで、とても癒されました。

歩いては止まり、歩いては止まりと、そのたびに嬉しそうにしていたので、おろしたてだったのかもしれません。後ろを歩く親御さんもニコニコされていました。

その子の横を通り過ぎる人もニコニコされていて、みんなで見守っている感じが良かったなあ。その場所だけ優しさがあふれていました。

日常の、そんなふとした一瞬に癒されました。

 

 

 

いつも買い物は、自宅の近くのスーパーや八百屋さんで済ませています。荷物が多くなりそうだと近くの方が助かりますし、ちょっと足りないものがあったらすぐに買いに行けますしね。

 

ですが、最近は少し遠くのスーパーへ行ってみたり、出先でたまたま見つけた個人店などに寄ったりしています。普段行っていないところに行くと、見かけないものが多くて。思わず目移りしてしまいました。

同じメーカーでも違う味やサイズが大きいものがあったり、独自のベーカリーを持っているのか焼きたてパンが並んでいたり。焼きたてパンなのにお手頃価格で、つい買い過ぎてしまいそうに笑

 

 

全国展開している大型店ももちろん魅力的ですが、地元に密着したお店の良さってありますよね。

その土地で今採れている野菜や果物だったり、昔から仕入れているであろうお菓子など、初めて行った場所なのになぜか懐かしく感じます。食べたことないはずなのに、昔から知っているような気持ちになることも。

お店の雰囲気がそうさせているのでしょうか。

 

常連さんと店員さんのやりとりなどを聞いていると、きっと普段からそういうやりとりを積み重ねてきているのだろうなあと想像できます。過度に馴れ馴れしくない雰囲気で、でもお互いに気心の知れた仲で。よそ者も受け入れてくれるような。

良い関係性を築いているからこそ、できるやりとりだなあと思いながら見ていました。

 

 

次に引っ越すときは、その町のスーパーなどを巡ってみようと考えています。なんとなく、その町の雰囲気が分かるような感じがして。

今までは部屋の情報以外は公共交通機関が近くにあるか、図書館が近いか(通えるか)等の周辺情報ぐらいだったのです。

 

ネットで買い物できる便利な世の中とはいえ、やっぱりちゃんと近くのことも知っておきたいですね。

実際に住むのは自分ですから、きちんと自分の目で見て判断したいと思います。

 

でも今住んでいるところも気に入っているので、引っ越すのはしばらく先かなあ。