他愛無い雑談中に、私ができないことを話していたはずなのに、「それが出来るようになっても可愛げが無い」と言われました。
この「出来るようになっても」には2通りあると思っていて。
並列としての「出来るようになって『も』」の意味ならば、今現在も可愛げが無いということでしょうし。(遠回しな厭味)
補完して「出来るようになっても可愛げが無い(からできない方がいいのではないか)」ならば、今現在可愛げが無いというわけではないでしょう。
この補完はやりすぎかなあ。
言った本人にとっては、何の気なしに言った言葉なのでしょう。おそらく。(…そう願っていますが実際はわかりません)
ですが、言われた側はそう簡単に流せるわけがなく。
目元は笑って誤魔化すことはできましたが、マスクの下の口元は笑っていなかったです。
「女は愛嬌」という言葉は、今でもよく耳にする言葉です。令和の時代にはあまりふさわしくないかもしれませんね。
けれど実際ぶすっとしている人よりもニコニコしている人の方がとっつきやすいですし、私だってそういう人に話しかけやすいのも事実です。
でも可愛げが無いというのはまた別の話で。
出来過ぎたり、過度の引け目を感じていたり、言葉の端々に卑屈な感情が乗っていることなどの内面的な部分。
そういう内面の「可愛さ」が、私には無いということ?
と考えれば考えるほどに迷路に入っていきます。
出来過ぎることもマイナスイメージになるのかあ。人間は比較をする生き物だから、相手に対して臆してしまうということらしいです。
以前の職場の先輩がとても仕事ができる人で、入社当初はなかなか周囲に馴染めなかったと話されていたことを思い出します。私は後輩でその先輩を尊敬していましたが、他の先輩方から見れば「出来過ぎる後輩」だったからでしょうか。
「ちょっと失敗するくらいが可愛い」と上司に言われていたそう。そんなことを言われるのも何だかなあと思う。
見た目の問題じゃない部分の「可愛さ」って難しいですね。
以前「可愛いはつくれる」というキャッチコピーがありました。今でもよく覚えていますが、女の子たちのきらきらの笑顔の広告がまぶしかったです。
見た目の可愛さを作って笑顔でいたら、だんだん中身も変わっていくという話を聞いたことがあります。変化を他の人に褒められて、自分に自信がついてくるということですかね。
確かに自信がついたら自然に笑顔が増えそうだなあ。その気持ちも分かります。
でも可愛くなくてもまあまあ生きてこられてるし、このままでいいかなあとも思うのです。結局、他者の評価でしかないものですし。
あまり気にしすぎても、と思いつつ言葉の裏側を探ってしまいました。