知らない間に失った「若い」という才能


また、新しいことをしなければならないと、私は私をせめぎたてます。

現状維持のままではその物事の精度を上げる事しかできないのは分かっているけれど、新しいことに取り組む余力がないと感じる時には、心が折れそうになります。

 

ずっとこのままでいたいなら、何かをしなければならない。

何かをするということは、変えるということ。新しいことを始めていかなければならないということ。

一見相反することのようで、実は真理です。

 

 

分かってはいるのですが、どこかで臆病な自分がいます。

踏み出すことの大切さも、しなければならない理由も、信じるべきではない言葉も分かっているのに動いていない。動けないと言い訳をしている。

理論的に組み立てて理由を探して、頭でっかちになりすぎているのでしょうかね。

 

こんな風にダメな自分ばかりを見ていると、過去の自分がもがいて動いてきたことが凄いことだと思います。どうしてできたの?と問いたくなる。

その時々の状況がどうだったか覚えているわけではないですが、それでも進んでいた。何も見えないときさえあったというのに。

結果がすべて良いものではないですが、自分自身はその過程を正当に評価できる人間のひとりだと思います。その過程がどれだけ苦しくても間違えていても、糧にできるのは自分自身。褒めることができるのも自分自身。

 

 

こういう時に、若かったという年齢や経験値の差、守るものが少ない事を理由にしてできていたと納得してしまうと、この先もっと進めなくなりそうです。

絶対に今の自分は過去の自分より年齢も経験も重ねているのですから。まっさらな状態に戻ることはできないから、だから「できない」の理由にしかならないのです。

その「できない」理由を知りたいわけではなくて、「できた」理由が知りたいのに。

 

 

「若さは才能」という言葉の意味が、最近分かるようになりました。

自分が若いときには、そこに在るものだからそれが特別なものだとは思っていませんでした。むしろ「若い」ということだけで周囲の大人に色眼鏡をかけられていることに、空しい思いをしたことの方が多かったです。

けれど、今思えばその若さは生きている限り必ず失っていく才能でした。

周囲の大人の色眼鏡は、失った自分の才能を直視できずかけていたものかもしれないと考えるようになったのはつい最近です。

 

今の自分はその才能は失っても、少しは積み重ねた経験があります。

その経験でできることを、探していかなきゃなあ。

 

 

 

なんだか後退している気がします。

停滞していると思っていても、少しずつ時の流れに押されているのでしょう。いつの間にか流されている、川の小舟のように。

 

もっと頑張らなければ、と気持ちを入れ直す10月の初めです。

今年もあと3ヶ月。