真っすぐな、定められた道を進んでいる人がこの世の中にはどれくらいいるのだろうと思います。
見通しが良く、周囲に何もない一本道。
そういうイメージって都会ではないんですよね。一本道って都会でもあるのに、周囲に建物が所狭しと並んでいて、本当に一本なのか定かではありません。
建物はくっついて立っているところもあるけれど、基本的には一軒一軒隙間があるからでしょうか。その隙間を小道とするなら、一本道とは言えないのもうなずけます。
そんなことを、コーヒーの木の新しく出た葉の葉脈を見ながらぼんやりと考えていました。
葉脈は人間の血管のよう。生きている証拠。
ずいぶんまわり道をして、しかも長い間迷子になっていたなあと思います。いや、今現在も迷子の途中かもしれません。
どうしたら良いか分からないあまりに立ち止まり、道から外れて草むらでふて寝をして。
そのうちに雨が降ってきたので、慌てて道を進んでみたら大きな木があって身体を休めることができて。
服を乾かすついでに、その木の下でまたぼーっと過ごして。
服が乾いても、まだ雨が降っているのでそのまま木の下で休ませてもらって。
今度はその木に愛着がわいて、いつしか雨が上がったことにも気づかずそのまま過ごしているような。
進んでいなくても、確実に時が過ぎていました。
まわり道にしかない景色があると、人は言います。
確かにその人にしか見れない景色なのでしょう。ですが、それを言葉で表そうにもなかなか難しい。人の経験談って、なんだかピンとくるようでこないことがあります。
それでもその人自身の言葉は、時に何かを伝えてきます。言葉通りの意味で捉えきれない「何か」。
だからエッセイは面白かったり、共感したりします。
真っすぐな道って、その人が思う「普通」なんだろうなあと思います。
「普通」の言葉の定義は曖昧で、人それぞれに違います。その人の中でも「普通」が何パターンもあると思います。
「普通」を選んでも、結果的にまわり道だったということもあるのではないでしょうか。選んだときと進んで振り返ったときは、その人自身が変わっていて「普通」もまた変わっていることもあるでしょうから。
だから、悩み過ぎることはないのではと思います。「普通」を選ぼうが「普通じゃない」ことを選ぼうが、構わない。未来の自分によっても違うのだから。
選ぶこと自体をできるなら、それでいい。
選ぶことすらできない時期も、人にはあるし必要なことだってあるのですし。
色々な時期を乗り越えて、まわり道を進んで迷子になって、行きつく先はどこなのだろうなあ。