対話するということ

 

当たり前のことなのだけれど、世の中にはたくさんの人がいる。

私という人間は、色々な経験が組み合わさってできているといっても過言ではないと思います。そしてそれは、相手にもそれまで生きてきた経験があるのだということを、話しているうちに思い出します。

 

 

「今、対話しているなあ」と最近改めて感じることがありました。

それを忘れるほど、きちんと対話してきていなかったということ。対話をするということを、どれくらいの間してこなかったのだろう。

事務的な、表面的な会話をすることは多くても、一歩踏み込んだ話は意識しないと難しいですね。

 

 

そもそも話をするということに、抵抗がある人とない人がいます。私は圧倒的に前者。話を聞くスキルだけが上がっているように感じます。それもまた、良いことではあるのだけれど。

質問をするのは気を使うこと。相手に話すことのできる線引きは、人によって違います。それを見極めるには質問しなければならないのだけれど、その質問も許容範囲内か一発アウトか様々で。

空気を読む、顔色をうかがうというのは世の中を渡り歩くスキルなのだろうなあ。

 

微妙なニュアンスを分からなくて飛び越えてくる人は、少し言えばやめてくれるのだけれど、問題は分かっていても聞いてくる人がいること。

答えたくないと意思表示しても聞いてくる人や、立場に物を言わせて答えを強要する人。本当に世間には様々な人がいます。

そういう人たちは空気を読むといったスキルは必要ないのだろうか。そういうものが無くても、気にせず生きていけるのだからいいのかなあ。

 

 

対話をするのは、相手に対し自分自身も少なからずの開示をしているということだと思います。

どこまでを言おうかと、悩みながら話を進めている節があります。一呼吸おいて、考えながらゆっくりと言葉を発する。言った言葉は戻っては来ないから、今話せる範囲の話を。相手の表情を見ながら、自分の発する言葉に責任を持ちながら。そして次の質問に備える。

頭をフル回転させて話しつつ、自分の中の線引きを改めて作り直すなどの作業をしています。

こうやって言葉にしてみると、とても大袈裟な作業に見えますね。

 

 

 

そんなことを続けていると帰宅時には疲れ果てていて、ソファーに座ると自然と瞼が落ちてくる。食事をとることよりも、頭を休めることに時間をとります。

この疲れ、今までにもあったはずなのに何かが違う。

何が違うんだろう。

 

休息の取り方も変わってきているのかもしれません。