他者の中の「わたし」


最近、長らく怖がっていたことを何とか始めるにあたって、まず自分の信頼できる人に話をすることができました。

信頼しているからこそ、ずっと話をしてこれなかったのです。パーソナルスペースがもともと広いこともあって、一定の距離を保っていました。つかず離れずの距離で、どちらかというと離れる前提の距離というか、離れることになってもお互いにとって苦しまずに済む距離というか。

 

こんなカッコつけて言っているけれど、結局上手く離れられなくて困るのは私自身なんです。近くても遠くても少なからずダメージを受けて、後悔することが目に見えていますから。いっそのこと無い方がいいというのは白黒思考過ぎますが、この世の中で誰の手も借りず生きていくにはなかなか厳しいものがありますし。

 

 

話してみて、これが私自身のためだけではなくて相手に対しても役に立ったということが意外でした。そして何より嬉しかった。

今まで何を考えているかわからなかったが、共感できたのだと。そして、その想いに答えたいと思ったと。それで前向きになったと弾んだ声で告げられ、拍子抜けしたことを覚えています。

私が今まで怖がっていたことは一体何だったのだろう。

 

 

私は、言葉に出すことによって今までのイメージが崩れることが怖かったのだと思います。私が思う「わたし」のイメージを、他者に押し付けていたのかもしれません。

けれど、それは私が思い描く「わたし」でしかなかったのだと。相手を推し量っていたということかもしれません。独りよがりに。

 

今回の件も負担しかかけないと思っていたのですが、それでもすぐに答えてくれて。

それがどんなに心強いか。一人でするには無理があることでした。誰かに何かしらの協力をお願いしなければ成しえないことであり、もちろん私自身が一番頑張らないといけないことでもあるのですが。

 

そういうことは今までにもあったのだと思います。今まで、気づいていなかっただけで。人知れず手を貸してくださった方がいたのにもかかわらず、私はそのまま過ごしてきているのかも、と。

 

 

 

他者に開示することが上手な人は、そういう乖離が少ないのかもしれないですね。

客観的に見る力があり、相手の中の「自分」が自分が思う「自分」に近ければ近いほど、気負わず素直でいられるというか。

時にやっかみや悪意を引き付けることもあるかもしれないけれど、同じくらい共感を得ているのだろうなあと想像してみたり。

初めからオープンでいる人は、そんな特別な事ではないのかもしれませんね。

 

そういう力が今の私には必要なのかもなあ。