人が変わるとき


『人は変えられない』

いつしか、当たり前のように浸透してきました。

確かにその通りです。「自分」は自分で変えられるけど、「相手」は変えられない。

相手がどんなに間違っていてもそれが悪だとしても、自分で変わろうと思わなければ、そして行動しなければ、変わらない。

本当の変化というのはそういうものでしょう。

そんなに人間は単純にできていないのです。

 

 

この言葉は、当たり前のことだと思います。

でもこの当たり前を繰り返し述べなければならないほどに、自分ではない他人を変えようと踏み込んだり圧力をかけたりする事柄があったのも、また事実であり。

無意識化でそうしてしまったこともあるでしょう。もしかしたら自分でもまだ気づいていない圧力を、誰かにかけてしまっているのかもしれない。

だからこそ、戒めのように何度も繰り返し語られているのだろうと思います。

 

 

 

では、人を変えられないならば、制度を変えてしまえば問題ないのでしょうか。構造を、システムを、変化させるもしくは無くしてしまえば問題は解決?

確かに、制度は変えなければならないときがあります。時代や、そのときに生きている人間に合わせて柔軟に変化させていかなければ、今生きている人の幸せには繋がらない。過去が、決して足枷になってはならないのです。

 

 

けれど、それが本当に必要な変化なのでしょうか。

少数の意見は大多数の意見に飲み込まれます。声がより大きい方が人数の多い方が、それが「正しい」として採用されてしまう。

けれどその声が大きい方に、もし悪意を持っている人がいたなら。穿った見方をし、過程の一部を大きな問題として捉えて糾弾するような。

完全な善でなければ、すべてが裏返るのでしょうか。

 

 

表裏一体の意見は、考え方を変えたらくるりと裏返ることがあります。オセロがひっくり返るように、黒から白へ、白から黒へ。

それを促すのは、「人を変える」ということでしょうか。

 

どこに線引きするか、どこまでを許容するか。

結局それは個人の判断によるもので、他者は決めることはできません。決めてしまったら、それは「人を変える」ことになる。

 

人が変えた制度は、人を変えるか。

人の変化を制度の変化に逃げている。

 

 

人を変えられないから自分が変わるだけ、それは良いと思います。けれど変わった自分を見てもらって自省を促す、というのは間接的に人に変化を求めているように感じます。