小さな世界と大きな世界

 

今住んでいる場所は、ほどよく都会です。車があったら便利だけれど、無くても公共交通機関が多いので移動には困りません。都会といえど、緑も多いし少し行けば海もあります。私には、ちょうど良い場所です。

 

日常生活ではそれほど都会と感じていないのですが、休日に外を出歩くと色々な人を見かけます。小さな子どもを連れた家族連れ、部活帰りの学生たち、独りで買い物をしている方、スーツを着た仕事帰りのリーマン、海外からの観光客。

そういう人たちを見ていると、人が溢れているなあと感じます。集まるところには集まっているのだと、これが都会なんだなと改めて実感します。

地元に住んでいた頃には、これだけ多くの人たちを一度に見かけることは無かったです。圧倒的に母数が違いますね。

 

 

そういう様々な人の流れを、ぼんやりと見ているのが好きです。特に今日のような三連休の中日は、人の流れが早くて入れ代わり立ち代わりに人が変わっていきます。

そんなことをしていると、本当に色々な人がいるということに気づくのです。

 

 

同じように地元から都会へ出た友人が言った言葉を思い出します。

「今までは本当に小さい場所で生きていたんだと、外に出て初めて分かった」と。

 

 

地元は、小さな世界だったんだなあと思います。

見えている範囲の事柄しか知らなくて、それ以外は違うものだと判断して。インターネットの世界は一見無限に広がりがあるように感じるけれど、一方で現実味がありません。結局見えているものがすべてであり、そうであってほしいと願ってもいました。

 

 

小さな世界にいた頃の私は、自分の周りしか見ようとせず、手の届く範囲のことしか考えられない、自分本位の生き方をしていたなあと思います。

少ない人に囲まれていたとき、予定調和の中で自分らしさを頑なに守り続けていたような気がします。それは本当に自分らしさだったのかといえば、そうじゃなかったんですよね。

多くの人に囲まれて揉まれて、ようやく私の輪郭が見えてきて。それもまた曖昧なので、よく見失いそうになります。「自分」が確立している人は、なんて素敵なのだろう。

 

 

この大きな世界は、何でもあるように見えます。実際多くの人がいて、たくさんのモノがあります。けれど、それゆえに「自分」が無ければ呑み込まれてしまいそうで少し怖いです。

呑み込まれて自分を消すこともあります。それが楽なときがありました。でも、そのまま生きていけるかといえば難しい。周囲に自分を馴染ませて自分を消し去ったとき、何が残るのでしょうか。

 

小さな世界にいた頃の自分と今の自分。

時々、どちらが良いのだろうかと考えます。