日常に潜む、プルーストのマドレーヌ

 

無意識のうちに、誰かを思い描いていることがありませんか。

 

「この香水は■■さんが使っておられたなあ」

「この食べ物は△△さんが好きだったやつだ。あのお店で美味しそうに食べていたっけ」

「こんないい加減なことをしたら、○○さんに叱られてしまうなあ」

 

頭の中に思い描いては消える、今までに私が関わってきた人たち。ふいに思い出す、懐かしい事柄。

随分過去のことでも、今現在まさに起きているように思い出します。

 

 

プルーストのマドレーヌ」という言葉があります。

マルセル・プルーストの自伝的小説である『失われた時を求めて』の中で、主人公が紅茶に浸したマドレーヌを食べた瞬間、過去の記憶を思い出す描写からこの言葉が定着していきました。

フランスでは「あなたにとってのマドレーヌは?」という質問が定番だそうです。フランスの方らしい質問ですね。相手を深く知る質問です。

 

 

私にとっての「プルーストのマドレーヌ」。年々増えていっている気がします。思い出すことも、考えさせられることも。

プルーストのマドレーヌが、日常のそこら中にあります。日常だからこそ、覚えていて思い出すことが多いのではないでしょうか。

 

 

けれど、そのどれもが良い思い出なわけではないです。

思い出すだけで、苦しくなることがあります。涙が出そうなことも。辛く悲しい記憶が引き起こされた時、耐えられればいいのですが一瞬にしてどん底まで落ちた気分になることもあります。

今自分が立っている場所がどんなに曖昧で、不確かで、不安定かということを思い知らされます。

 

 

思い出して、意味づけを変えてまた記憶し直すこともできるでしょう。でもそれは、当時の私を消してしまうような気になります。

決してその経験が無くなったわけではないのに、その時感じた事・考えた事が否定されたような、そんな気分になるのです。

難しいですね。

 

 

 

私にとってのプルーストのマドレーヌをひとつだけ。

それは手から香ってくる玉ねぎの匂いです。

 

玉ねぎの皮を爪でひっかけてむぐと、爪の間から香りますよね。それもしばらくの間、なかなかその匂いはとれません。

その匂いを嗅ぐと、子どもの頃母の手を握ったときの玉ねぎの香りがしているのを思い出すのです。

 

今、自分が料理をするようになって、玉ねぎの皮を包丁でむぐようになりました。なので、あまり自分の手から玉ねぎの匂いがすることはありません。

けれど、ごくたまに玉ねぎの皮がむぎにくく爪でひっかけてむぐことがあります。そういうときは、後で自分の手を嗅ぐと母の手を思い出すのです。

玉ねぎだけを嗅いでも何も思わないのですが、手から匂うと思い出します。不思議です。

 

私にとっては、手から香る玉ねぎの匂いが母の匂いだともいえます。

くさいと言われようが、私にとって一瞬で子ども時代に戻る懐かしい匂いです。

 

 

失われた時を求めて』、いつかきちんと読んでみたい本です。

あなたにとってのプルーストのマドレーヌは?